経営に役立つ本

経営に役立つ本

2022年9月15日 (木)

心 その7

中村天風氏が稲盛氏の生き方考え方に多大なる影響を

与えたのは間違いないのでしょう。

 

ご紹介した京セラのスローガンもそうですし、

この本で「真我」という言葉が何度も出ていますが、

これこそ中村天風氏の教えの根幹でもあるからです。

 

どうしてこれほどまで中村天風氏に心酔されているのか

この本でまたよく分かりました。

 

稲盛さんが小学校の頃、結核の初期症状である肺浸潤に

かかったことは有名なお話です。

当時は結核とは「死の病」とまで言われるほどの怖い病気。

幼くして「暗くて深い死の淵を除いたような強烈な体験」

であったのです。

また、この中村天風氏も結核にかかったことがあったのです。

アメリカやヨーロッパに渡り結核を直すべく、

勉強するのですが思うようにいきません。

失意の中でエジプトのカイロのホテルで、インドの聖者

カリアッパ師と運命的な出会いをしたのです。

天風氏はカリアッパ師について修行することになるのです。

そこで悟りをひらき結核までをも治癒してしまうのです。

 

「心次第で人生は限りなく拓けていく」

というのが天風氏の教えです。

 

稲盛氏の生き方そのものように思えます。

 

冒頭申し上げたようにこの本は稲盛氏の

「遺書」のように感じたというのは、稲盛氏の人生の中で

影響を受けた方々を紹介してお礼を言っているように

思えたからです。

 

「運命の師の出会いで人生は大きく変わる」

 

小学校の時に「死の病」を患った後、

「少年期から社会に出るまでの私の人生は、挫折と苦悩、

失意の連続でした。中学受験には二度も失敗し、

大学受験をしても希望の学校に行くことはかなわず、

続く就職試験も思うようにならない・・・」

 

「なぜ自分ばかりこううまくいかないのだ。

何をやってもダメにちがいないと失望し、うちひしがれ、

暗い気持ちで日々贈るばかり・・・」

 

そんな稲盛氏を救ってくれた4人の人生の恩人を

あげています。

 

中学に進む橋渡しをしてくださった先生

 

大学受験を勧めてくださった先生

 

就職先を世話してくださった先生

 

技術者としての道を外さないようにありがたい忠告を

くださった先生

 

「いずれの先生方も、ご自身の都合からではなく、私の将来を

親身になって心配し手をさしのべてくださった方ばかり」

だったのです。

素晴らしい方々のおかげで稲盛氏は救われたのです。

 

そして冒頭申し上げた奥様も含めた家族への感謝。

 

 

そして最後の章

「すべては心に始まり、心に終わる」

 

何度も読み返してしまいました。

実に心に響きます。

 

 

「純粋で美しい心をもって事にあたるならば、

何事もうまくいかないものはない。

つねに心を磨き、自己を高めつづけていれば、

いかなる困難に見舞われようと、運命はかならず

やさしく微笑み返してくれる」

 

稲盛先生。ありがとうございました。

 

合掌

 

(ありがとうの心シリーズ おしまい)

2022年9月14日 (水)

心 その6

 しかし、ここでJALのお話を聞いて皆思うのでしょうけど、

「JALで働いている人は高学歴でエリート意識強い方々が多いはず。

そこに、いきなり『善なる心』と言っても通じるはずがない・・・。」

 

それだけでないのですね。稲盛さんの本を何度も読み返しながら

皆思うのです。

 

「実に素晴らしい。でもこのことを従業員には理解させられない・・・」

 

中小企業の経営者なら皆思い悩むことですね。

稲盛さん自身も京セラを立ち上げたころは

よく悩んだことのようです。

ここは大事なところですね。稲盛さんはズバリ書いてあります。

 

「経営をしていくためには、

『私はこの会社をこういうふうに経営していきたい』

『将来はこんな会社にしたいのだ』

と自らの考えやビジョンを社員、従業員につねに伝え、

理解してもらおうと努力しなければいけません。」

 

「どんな立派なことをいっても、それを説く人が立派で

なければ、その内容は聞く人の心には入っていきません。」

 

「何をいうかというよりも、誰がいうかの方が大切で、

立派だと思われていない者が立派なことを説いたところで

まったく説得力がありません。」

  

ここは厳しいところでしょうけど、

経営者自身の人格を高め、従業員から尊敬されなければ

いけないということなのです。

このあたり理解していない経営者も多いということなのでしょう。

ただ、こうもズバリ書いてあります。

 

経営者自身が斜にかまえて

 

「家族主義で親子、兄弟みたいな関係で行こうや」

 

でも従業員から

 

「それは人を働かせるための便法でしょ・・・」

 

と言われてしまいます。

 

それなら、昔流に「コンパ」と称する酒席を設けても

 

「酒はいただきますが、だから胸襟を開けといわれても・・・」

 

となるのですね。

令和の今ならもっと厳しいこと言って、そもそも酒席にも

参加しないでしょう・・・。

 

そこで稲盛さんはどうしたかということなのですが、

ここはもっと大事なところです。

 

「私自身が尊敬を集めるにふさわしい人間に成長しなれば、

『ともにがんばろう』といったところで熱意は

いっこうに伝わりません。」

 

そのためには、

 

「自らの人格を高めるための哲学を身につけるべく、

読書と勉強の日々が始まりました。」

 

ここで中村天風氏に出会うのです・・・。

 

2022年9月13日 (火)

心 その5

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JALの再建のお話は稲盛さんを語る上で、絶対に外すわけにはいけませんね。

今から12年前の2010年。

戦後最大の負債額を抱えて経営破綻した日本航空(JAL)。

日本政府から要請されて、会長に就任。

誰もが不可能と断じたその再建を見事に果たしたのですね。

当時78歳ですからね。

京セラ社内では「晩節を汚す」と反対されたそうですから、

この方の強烈な「善なる動機」は素晴らしいですね。

 

何度も書きますが

「何事かをなそうとすれば、いかなる困難にも負けず、

果敢に突き進む強い意志、何があっても成し遂げるという

すさまじいまでの熱意」

 

並の78歳ではなかったのです。

このお話実は前にもアップしたのですね。こちら

 

でもこのお話は間違いなく、後世にも語りつけられるはずでしょう。

 

この「熱意」を従業員に待たせたことが再生のきっかけに

なったのです。

 

「ウチの従業員にも待たせてほしい・・・」

 

そう願っている中小企業の経営者も多いでしょう。

そう思うならぜひ実践してください。

 

「従業員たちが自分の都合や欲得よりも会社にとって

何が大切かを考え、その思いに基づいて自ら行動を

起こしてくれた。

起業再生の原動力となったのは、そうした従業員の『心』の

ありようであり、彼らが一貫して揺るぎなき熱意を持ち続けてくれた」

 

だからこそJALは再生できたのです。

 

 

会長に就任して全社員に向けて最初に紹介した言葉です。

 

「新しき計画の成就は、ただ不屈不撓の一心にあり。

さらばひたむきにただ想え、気高く、強く、一筋に」

 

この言葉噛みしめてください。

哲人「中村天風」氏の言葉です。

かつて京セラでも掲げていたスローガンなのです。

このまま真似して会社で飾ってもいいのでしょう。

 

再生開始してまず始めたことは、1カ月間のリーダー教育。

これは本当に大変だったのだと思います。

 

人員削減や路線縮小など厳しい報道がなされていましたからね。

二次破綻さえ噂されていた当時ですから。

 

これも本でご紹介しましたが、

「年収3000万円のパイロットが待遇改善を求めて

会社と争っていたくらい」のもう「ボロボロの」状況。

 

 

そんな危機的状況下で

 

「何事をなそうとも、いかなる運命を歩もうとも、

私たちが生きている限り、目指すべきものは、他に

よかれしと思い、他のためによきことをなす『善なる心』です。

それは、『真・善・美』という言葉でいい表すことのできる、

純粋で美しい心」

 

どうでしょうか。

まったく聞く耳持ちそうもないくらい、すさんだ従業員の心に

強烈な熱意をもって語り掛けたのです・・・。

2022年9月 9日 (金)

心 その4

「開発を成功させる秘訣は『あきらめないこと』」

 

このお話は好きな箇所です。

いろいろな本でも読みました。

 

小さな町工場としてスタートした京セラが国内外の注目を集め、

飛躍的な発展を遂げることができた有名なきっかけが

あるのです。

 

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京セラを語る上で重要な物語ですね。

稲盛さんを紹介する記事には必ず出てきます。

 

世界的なコンピュータメーカーであるIBMから、

当時の大型汎用コンピュータの中枢に組み込まれる

部品の受注を受けたのですね。

 

受注はできたものの

「仕様書に書かれた品質基準は、当時の技術水準に比べて、

桁違いに高く、寸法の精度もこれまでかかわってきたものの

十倍以上に厳しい・・・」

 

しかも

「つくるための設備はもちろん、でき上った部品の性能を

測定するための機器すらありません・・・」

 

これでよく受注できたと思いませんか。

もちろん、連日工場に泊まり込んで、社員と寝食を共にしながら

あらゆるプロセスを指導監督。

 

それでも試作品は「不良品」ということですべて返品。

 

ここで「あきらめない心」ですね。

 

受注から合格通知が来たのは7カ月後です。

並の製造会社ならツブレテいたかもしれないでしょうね。

その間当然売上もまったくないのでしょうから・・・・。

 

それから工場を24時間フル稼働させて、膨大な量の製品を

期限までに納入することができたのですね。

 

京セラ最高の美談として語り継げられているお話です。

 

この「ネバーギブアップ」は稲盛さんがあちこちで

いわれることですね。

 

「ネバーギブアップの精神とは、予期せぬ障害に阻まれ、

『もうダメだ』と倒れ込んだその場所から、土埃を払って

再び立ち上がり、事の成就に向けて何度も静かにやり直すことが

できるということ」

 

この心のありようをぜひ学んでください。

 

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この「ネバーギブアップの精神」でできたのが、

「再結晶宝石」の事業だったのです。

京セラというとファインセラミックスの会社と言われますが、

その技術を応用して宝石も作っていたのですね。

 

なかでもエメラルドは、当時上質な原石が採れなくなってきたので

質の悪いものが高い値をつけていたことで注目したのです。

 

しかし、開発してもいっこうに商品化できません。

それでも地道に研究開発を続けたそうです。

結局7年もかかって製品が完成したのですね。

  

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稲盛さんが左手の薬指にエメラルドの指輪をつけているのは

有名なお話なのですが、それこそ初めて採れた記念すべきもの。

 

「あきらめずに挑戦しつづけた従業員たちの思いの結晶」

 

なんだそうです・・・。

2022年9月 8日 (木)

心 その3

盛和塾の設立のいきさつも書いてあります。

 

「27歳で京セラを立ち上げた当初、それまで一介の技術者にすぎなかった私は、

経営というものをだれからも学ぶことはできませんでした。」

 

「日本にある会社の99%を占めるといいわれる中小企業の経営者に

とっても、かつての私と同様、経営とはいかなるものか、

その本質を教えてくれるところはどこにもありません。」

 

これは中小企業の顧問税理士として本当に思います。

経営者は孤独です。

誰も経営ということを教えてくれませんから。

会社を独立した方なら分かりますが、それまでは「上司」という存在が

ありました。

辞めたとたんに、突然自分自身が「上司」になるのです。

その日から日々悩みながら経営しているのです。

 

「なら、顧問税理士が経営を教えたら・・・」

 

そう思うかもしれません.

でもおこがましいようですが、「税務の」顧問なのです。

「経営の」顧問ではないのです。

でも何か役に立てないか、常に思ってきました。

 

この「経営者本シリーズ」を10年以上続けているのは

そんな理由からです。

 

「自分は経営者に経営をお教えするのはまだまだ未熟者。

だからこそ古今東西の素晴らしい経営者の本をご紹介して

何か役に立ててもらおう」

 

そう思っているからです。

自分自身も必死に勉強してきました。

そんな中で、何度もこの稲盛さんの著作を取り上げているのは

心から素晴らしいと感じているからです。

 

特に「コレ」です。

 

「経営に大切な『心』のあり方とはどういうものか教えてくれる場は

ありません」

 

だからこそ、稲盛さんは盛和塾を立ち上げたのですね。

ただ残念ながら、2019年をもってその活動を閉じてしまいました。

設立から35年あまり、稲盛さん自身が語るように

「私はすべてを語りつくしました」

きっとそうなのでしょう。

 

本当に「生で」その薫陶を受けたかったと心から思います・・・。

 

京セラの開業時のお話。

これはいろいろな稲盛さんの本で出てきた名場面です。

 

「京セラの創業時、私は新規開拓のために部下を連れて、

会社の飛び込みセールスに駆けずり回ったものです。

しかし、実績も信用もない、無名の小さな会社が訪ねてきたところで、

十中八九は玄関払いです。

それでもあきらめずに、何度も頭を下げて何とか会ってもらう。」

 

ここだけ読んでも勇気がわきませんか。

 

「あの京セラも最初はそうだったのか・・・」

 

そんなことを教えてくれる経営者はいないですからね。

 

「ダメだと思ったときが仕事の始まりである。こんな状況だからこそ、

かならず打開する道はあると信じて、ひたすら進んでいく。

そのときに運命の扉が開くのだ・・・」

 

このコロナ禍こう思わないとダメなのでしょう。

部下たちにそう思わせるとともに、経営者自身も

そう信じ、心に深く刻んでいくのです・・・。

2022年9月 7日 (水)

心 その2

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京セラのHPからの広報です。

稲盛さんは、8月24日に老衰のために亡くなったそうです。

 

京セラの元幹部の方の証言。

 

「自宅で老衰でした。身体的に悪いところはなかったのですが、

夏になって弱って食事ができなくなり、眠るように亡くなったようです」

 

「眠るように亡くなった」

これが実に稲盛さんらしいですね。

どこも痛いところもなかったのでしょう。

もちろん「病院で苦しんで」では絶対なく・・・。

 

この稲盛さんの「生き方」そのものですね。

「誰かを憎んだり恨んで」ということも絶対なかったのでしょう。

 

この「心」を何度も読み返してください。

 

「喜んで感謝すれば、悪しき『業』も消えていく」

 

そんな素晴らしい「極楽浄土」へ誘ってくれることでしょう。

 

「謙虚さは、よい人生を歩むためのお守りになる」

 

ここも何度も読み返してしまいました。

 

「京セラを創業し、経営が軌道に乗り、そこそこの利益を

上げるようになったころ、私はふと、『これだけの収益が上がっているのに

わたしの年棒がこれしかないのはおかしいのではないか?』

と思ったことがありました。」

 

これは中小企業の顧問税理士としてよくあるご相談ですね。

 

「先生!会社が儲かってきたので給料上げていい?」

 

よくある相談ですね。何百回、何千回と聞かれたでしょう。

 

皆この時の稲盛さんのようにこう思うからです。

 

「私の才能によってつくった会社で、利益も私の才覚によって

出している。だからいまの数倍の年棒をもらっても

バチはあたらない・・・」

 

でもここで稲盛さんは気が付くのです。

 

「すぐに傲慢になりつつある自分に気づき、激しく戒めたのです。」

 

どうでしょうか。

ここが、並の中小企業経営者と、世界の稲盛さんの違いです。

 

「自分がもつ才能や能力は、けっして自分の所有物ではなく、

それはたまたま自分に与えられたものにすぎない。

私がやっている役割を他の誰かが演じても、

何ら不思議はないし、私の能力や才能も、私のものでも

なくてもいっこうにかまわない。

だからこそ、それを自分のためだけに使うのではなく、

世のため人のために使うようにしよう。」

  

どうでしょうか。

こう思える経営者は少ないのかもしれません。

またこういう指導する顧問税理士も「皆無かも?」

しれません・・・(すいません)

 

でもこういう「心の持ちよう」さえあれば

 

「心から驕りや高ぶりが消え、感謝の思いや謙虚さというもので

満たされるようになります」

 

どうでしょうか・・・。

2022年9月 6日 (火)

心 その1

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ここ数日稲盛さんの考え方を思い出し、どっぷりつかって

おります。

ご紹介したい本を温めていたので、アップしましょう。

「心」という稲盛さんの著作。

 

3年前に発売され、もちろん、すぐ購入しました。

「生き方の続編」

とまでサブタイトルについていたら、も買うしかありません。

 

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「生き方」もずいぶん前にご紹介しましたね。 こちら

「燃える心とありがとう」に感動したお話でした。

因みにこの本は世界各国で翻訳され発売され、特に中国では

ベストセラーになったそうです。

 

「心」なのですが、読んですぐご紹介するのを正直ためらっていたのです。

 

こういうことをまた書くと怒られてしまいますが、

3年前にこの本読んですぐに、これは「遺作となるのではないか」

とすぐ感じてしまったのです。

この本読んだ方は分かるでしょう。

「遺書のように」思えるからです。

 

最後の章ですね。

奥さんとのなれそめが延々と書かれているのですね。

他の著作は経営のことは書かれていても、ここまで

プライベートなことは一切書いてこなかったからです。

 

「人生を支えてくれた妻という存在」という箇所ですね。

 

「当時の私は、研究に没頭するあまり、会社に寝泊まりして、

食事も適当なものですませるといった、不規則で不健康な生活を

送っていました・・・。」

 

「出社して自分の机を見ると弁当がおいてあります。」

 

これが当時同僚であった奥さんが作ってくれた弁当なのです。

 

「あまりにひどい生活をしているのでかわいそうになった」

ということなのですが、実にやさしい奥様ですね。

しかも、この頃の稲盛さんは、当時勤めていた会社の独立直前。

当然社内的に孤立していたのです。

この時に奥さんへの一言。

 

「誰も私についてこなくても、あまえだけは後ろからオレの

尻を押してくれるか」

「いいですよ。いくらでも押しますよ」

 

何だか感動的なプロポーズですね。

その会社を退職した翌日に、コーヒーとケーキだけの

質素な結婚式を挙げたのです。

 

 

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「以来、半世紀を超える長い期間を妻は一緒に歩んできて

くれたのです」

 

「他の家庭を見れば、家族だんらんを大切にして、

子供の授業参観や運動会など学校行事にも参加してあげるお父さんも

多かったのですが、私は一度もそうした行事に参加したことありません。」

 

「家族といっしょに楽しい時間を過ごすことも犠牲にするくらいでないと、

経営などできるものではない。」

 

令和の現代ならいろいろ「突っ込まれ」そうなところですが、

それこそが稲盛経営学というものなのでしょう。

だからこそ、この一言。

まさに最後の奥様への感謝の言葉。

 

「私が仕事にまい進しているのを家族が許して、あたたかく

見守ってくれたおかげだといえます。そんな家族を持てたことを

うれしく、また誇らしく思い、深い感謝の念を感じざるをえません。」

2022年9月 1日 (木)

キリンを作った男 その4

本山天皇体制は、やがて総会屋への利益供与事件の影響で終焉します。

その「茶坊主社長」がやっと失脚して、

96年3月にキリン社長に佐藤康弘氏が就任。

因みに佐藤社長は私と同じ早稲田大学商学部出身。

キリン初の私大出身社長ということから、キリンの古き体質がよく分かりますね。

実は、永年キリンは新卒採用の際に「指定校制度」を取っていたのです。

東大京大などの旧帝大と一橋大卒で私大は早慶しか採用しなかったのです。

 

ただ、就任早々佐藤社長は苦しんでいました。

当時売れ出していた発泡酒の開発にもキリンは着手しますが、

200も試作品を作りながら難航していたからです。

そこで佐藤社長は大英断!

 

97年9月、当時の佐藤社長はキリンシーグラムから

前田氏を呼び寄せるのです。

前田氏は本部商品開発部長に就任。

この時前田氏は47歳。キリンで40台の部長はただ一人。

つまり、「最年少部長」の誕生です。

 

これから7年もの間左遷されていた男の「倍返し!」のスタートです。

前田新部長は、わずか4カ月で「淡麗」を開発してしまうのです。

 

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当時の販売目標は、98年12月末までに1600万箱だったのを

なんと!3979万箱も販売してしまうのです。

 

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まさに「倍返し!」

 

初年度の販売数としては「スーパードライ」を

はるかにしのぐ「最多記録」だったのです。

 

でも、これだけにとどまりません。

「マーケティングの天才」は01年7月に「氷結」を開発。

当時は缶チューハイが売れていたため、キリンも参入したのですが

前田氏のアイデアで缶チューハイのベースを

甲類焼酎からウオッカに切り替えたことで大ヒット。

 

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さらに、その後02年4月、糖質70%オフの発泡酒

「淡麗グリーンラベル」も開発。

健康系ビールとして大ヒット作となります。

 

これらの功績で04年3月末、前田氏は執行役員マーケティング部長に就任。

その半年後には執行役員酒類営業本部企画部長に。

 

さらにその後当時の加藤社長からも気に入られ、

キリンHD常務執行役員兼メルシャン代表取締役専務執行役員。

さらに09年1月キリンビバレッジ社長に。

 

実に、半沢直樹張りのドラマテックな展開でしたね。

マンガの「課長島耕作」から「社長島耕作」に駆け上がったような。

 

でも、やはり強烈な「オチ」が待っていました。

加藤社長はキリンとサントリーの統合計画を企てていたのです。

それが破談になって加藤社長は失脚。

加藤派と見られていた前田氏もキリンビバレッジ社長を解任。

結局キリンを追われることになってしまったのです・・・。

 

実はその後、前田氏がキリンを去ってから凋落の一途を

辿ってしまいました。

 

キリンのライバル(アサヒ?)社長の言葉。

 

「キリンは前田さんが作ったヒット商品に支えられていた。

キリンはそんな功労者を切ってはいけなかった。

こういう人事は、社員たちの士気にもかかわる」

 

本当にそう思いますね。

前田氏は、その後20年6月13日にすい臓がんで

亡くなります。享年70歳。

 

奇しくも29年前の6月13日

社長賞を受賞した日でした・・・。

 

さらには20年6月までの下半期で、キリンは09年以来、

実に11年ぶりにアサヒを逆転し、シェアトップに返り咲きます。

キリン全社をあげて「前田氏の弔い合戦」を

してくれたのでしょう・・・・。

 

「こんなサラリーマンが本当にいたのか!!」

 

リアル半沢直樹に心から感動しました。

とにかく一番搾りが飲みたくなりました・・・。

 

(ありがとう!キリン最大の功労者シリーズ おしまい)

2022年8月31日 (水)

キリンを作った男 その3

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前田氏が社長表彰を受けた91年6月。その時41歳。

でも社内の抗争に巻き込まれて左遷。

受賞時すでに外されて、ワイン部門にいました。

 

半沢直樹が東京中央銀行を救って大手柄を受けた直後に

東京セントラル證券に左遷人事を受けたのと一緒ですね。

 

そのあと前田氏は独学でワインの勉強を始めます・・・。

この時の社長は4期8年勤めた「本山天皇」。

その後社長は退きますが、会長となって子分の社長を後継者として

「院政」を始めます・・・。

しかし、本山天皇の在任期間、キリンはアサヒに

完膚なきまで叩きのめされます。

90年にシェア48.2%と22年ぶりに50%を割ってから、

キリンの社内的には「敗北の6年間」というそうです。

経営の判断ミスにより、ラガーを「生化」して大失敗。

スパードライに余計に水をあけられてしまいました。

 

本来なら2期目か3期目で責任を取って退任し、

後継社長と目されていた

桑原通徳氏になるはずだったのです。

桑原氏は誇り高き営業マンで、人望熱き方だったのですが、

それゆえに、天皇のイエスマンにはなれなかったのです・・・。

 

実は桑原通徳氏は元のマーケィング部長。つまり前田氏の直属の上司で

まさに前田氏を育てた方なのです。

桑原氏はその後大阪支社長として後継社長と目されるまで

多くの人材を育て上げ、社内的には「桑原学校」とまで

社内で評されていたのです。

桑原氏は91年3月に近畿コカ・コーラ社長に転じ、

キリン本体から外されてしまいました。

著者は

「桑原さんが社長に就任していたなら、アサヒに負けることは

なかったでしょう」

 

何よりも一番搾りを開発し、キリンの最大の功労者である前田氏を

左遷させるようなことは絶対なかったと思います。

 

この本の題名のとおり、前田氏が「キリンを作った男」と

いうのなら、

「キリンを壊した男」こそは、「本山天皇」だったのでしょう・・・。

たぶんそう著者は言いたかったのだと思います。

 

93年3月。

桑原氏という後ろ盾のいなくなった前田氏は、

さらなる閑職に飛ばされてしまいます。

 

グループの洋酒メーカーキリン・シーグラムへ出向。

この時43歳。

あまりにひどい仕打ちではないでしょうか。

 

「マーケティングの天才」として名前が知られ始め、

脂がのり切っていた時期です。

 

申し訳ないですが、キリンの暗黒時代だったはずでしょう。

 

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同期でのちの社長になる前沢幸一氏と二人でビールを飲むシーンが

でてきます。前田氏の本音。

 

「キリンは、なんて酷いことをする会社なんだろう」

 

何だかサラリーマンの悲哀を感じますね。

どうでしょうか。

まるで半沢直樹が井川遥さん演じている美人ママに

愚痴を言っているシーンを見ているようですね。

 

「リアル半沢直樹」ということを

分かっていただけたでしょうか・・・。

2022年8月30日 (火)

キリンを作った男 その2

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1987年3月17日。

アサヒビールから新商品が発売されます。

「スーパードライ」

ですね。

世に言うビール業界「ドライ戦争」勃発です。

 

「あんな薄いビールはビールの王道ではない」

 でも当時のキリンビールはまったくバカにしていたのですね。

「キリンラガー」という長年のブランドの上に安穏としていたのです。

 

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その頃前田氏は、新商品開発チームで「ハートランド」の開発に没頭。

前田氏のこの時のマーケティング・プランナーとしての発想。

ここは驚きます。

「大量生産・大量消費の時代が終わり、心を動かす商品の時代へ移る」

 

しかし、1987年というとバブル前夜。

「大量生産・大量消費」は当時として常識なのですね。

その時代に、ハートランドを

「量より質を追求し、コアなファンに愛されるビール」

として開発していたのです。

ここは詳しく書きませんが、なかなかマーケティングの勉強になりました。

 

しかし、キリンはアサヒに対抗してドライを追随しますが、

ことごとく失敗。シェアは完全に奪われます。

なぜ失敗したかはこの著者の表現が実に面白い。

 

「スーパードライにシェアを奪われたせいで、偉い人たちの

言い訳のための書類作りが、われわれ下々の現場までおりてきた・・・」

「シェアを奪われたことよりも、失敗を言い訳にする、

他責文化が醸成されたことがキリンにとっては痛手だった・・・」

 

「長年の殿様商法によって、組織の機能不全が悪化」

 

そんな中で、前田氏はハートランド・プロジェクトを大成功させます。

それを受けて1989年1月、

「キリン一番搾り」の開発チームリーダーに大抜擢。

この時39歳。

当然「スーパードライ」の勢いを何としても止めなければならないと

いう社運がかかった一大プロジェクトですね。

 

でも一方でマーケティング部に対抗して企画部でも

大型新商品を多額の予算をかけ、マッキンゼーと組んで

開発します。

それを主導していたのが「キリンのラスプーチン」と言われたある役員。

(どういう訳か本名は出ていませんでした)

そうして、キリン社内史上残る一大コンペ。

 

コンペの結果、前田氏のチームが圧勝。

一番搾り商品化のゴーサインがでるのですね。

しかし、当時の経営会議では

「高価格のプレミアムビール」

として発売することを決めていたのです。

 

「これではスーパードライには勝てない」

 

そう思った前田氏は社長に直訴するのですね。

当時の社長は本山英世。

キリンビールの社長を4期8年も勤め、

当時「キリンの天皇」と言われるほどの実力者。

社内で誰も逆らえるものはいません。

その「本山天皇」に対して

 

「すべて責任は私が取ります」

 

その結果、取締役会で本山社長の一言。

「プレミアム案は却下」

当然、その席には、社内コンペに負けた「ラスプーチン」も同席。

苦々しく見ていたでしょう。

 

その結果、スーパードライと同じ価格帯で販売され

それにより、一番搾りは空前の大ヒット。

キリンビールは復活したのです。

 

一番搾りの開発の功績により前田氏は「社長賞」を受賞。

社内の誰もが知る存在になります。

 

でもその直後、前田氏はなぜか突然の左遷。

マーケティング部のチームリーダから外され、

移動先は経験のないワイン部門・・・。

 

この人事には、「キリンのラスプーチン」が前田氏への嫉妬から

人事部を動かし左遷させたのです。

 

 

もうここまで書いて、私が言いたいことは分かりますね。

 

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こんなドラマのような展開は

「半沢直樹」そのものですからね。

これは是非池井戸潤さんが脚本書いて、TBSの日曜劇場で

ドラマ化をしてほしいですね。

 

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「キリンのラスプーチン」を演じる方は、絶対香川照之氏で決まりです。

今「敵役」としては誰よりも一番似合ってます。

日本中の全国民から「圧倒的な」嫌われる役になるはずです。

TBSが「懺悔を込めて」ぜひ制作してほしいですね・・・。

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