医者の父が息子に綴る人生の扉をひらく鍵 その4
2年の浪人を経て20歳で鹿児島大学へ。
横浜生まれ、横浜育ちの中山先生ですからね。
目指していた千葉大学医学部に落ち、
まさに「都落ち」という
敗北感にさいなまれながら
鹿児島に行ったのでしょうね。
金髪にピアスだったそうですから、
かなり浮いていたのでしょうね。
同級生は100人。
このクラスが6年間一緒ということですから
ある意味大変ですね。
現役生から見たら2歳も年上の金髪ピアス
ですから。
「やっぱり僕は同級生たちと馴染めなかった。」
これは本心でしょう。
異国の地で友達も誰もいない。
「ホサレタ」
とも書いてあったし、
「鹿児島弁も芋焼酎もあわなかった」
ふと40年前の大学生の頃を思い出しましたが、
あの頃は2浪してまで早稲田に入って来る人が
実に多かった。
クラスの3分の1くらいはいたでしょうか。
その「2浪組」がクラスのイニシアチブを取り、
率先して遊んでいました。
あの頃はディスコやサーフィンが大流行りの時代。
日焼けしたサーファーの2浪組が
与論島ツアーなどを企画していましたね・・・。
「2年間苦労した分を取り戻すんだ」
そんな強烈なノリでした。
中山先生は2年間苦労したんだから
遊べばいいと思いますが、ここは医学部ですからね。
勉強しなければ行けないし、大変ですね。
週5日も練習のあるサッカー部にも入ります。
このあたり
「泣くな研修医5 悩め医学生」
に書いてあります。
かなりデフォルメされているので実際の
中山先生のこうありたかった学生像なのでしょうか。
この本も青春ドラマを見ているようで
胸躍らせながら読みました。
ここでホサレタ中山先生を救ったのが、
脱サラして医学部に入り直した30過ぎの同級生。
こんな人生もあるのですね。
私も31歳で脱サラして税理士目指しましたが
脱サラして医者になる選択肢もあったのですね・・・。
(絶対なかったと即断言できますが・・・)
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