キリンを作った男 その2
1987年3月17日。
アサヒビールから新商品が発売されます。
「スーパードライ」
ですね。
世に言うビール業界「ドライ戦争」勃発です。
「あんな薄いビールはビールの王道ではない」
でも当時のキリンビールはまったくバカにしていたのですね。
「キリンラガー」という長年のブランドの上に安穏としていたのです。
その頃前田氏は、新商品開発チームで「ハートランド」の開発に没頭。
前田氏のこの時のマーケティング・プランナーとしての発想。
ここは驚きます。
「大量生産・大量消費の時代が終わり、心を動かす商品の時代へ移る」
しかし、1987年というとバブル前夜。
「大量生産・大量消費」は当時として常識なのですね。
その時代に、ハートランドを
「量より質を追求し、コアなファンに愛されるビール」
として開発していたのです。
ここは詳しく書きませんが、なかなかマーケティングの勉強になりました。
しかし、キリンはアサヒに対抗してドライを追随しますが、
ことごとく失敗。シェアは完全に奪われます。
なぜ失敗したかはこの著者の表現が実に面白い。
「スーパードライにシェアを奪われたせいで、偉い人たちの
言い訳のための書類作りが、われわれ下々の現場までおりてきた・・・」
「シェアを奪われたことよりも、失敗を言い訳にする、
他責文化が醸成されたことがキリンにとっては痛手だった・・・」
「長年の殿様商法によって、組織の機能不全が悪化」
そんな中で、前田氏はハートランド・プロジェクトを大成功させます。
それを受けて1989年1月、
「キリン一番搾り」の開発チームリーダーに大抜擢。
この時39歳。
当然「スーパードライ」の勢いを何としても止めなければならないと
いう社運がかかった一大プロジェクトですね。
でも一方でマーケティング部に対抗して企画部でも
大型新商品を多額の予算をかけ、マッキンゼーと組んで
開発します。
それを主導していたのが「キリンのラスプーチン」と言われたある役員。
(どういう訳か本名は出ていませんでした)
そうして、キリン社内史上残る一大コンペ。
コンペの結果、前田氏のチームが圧勝。
一番搾り商品化のゴーサインがでるのですね。
しかし、当時の経営会議では
「高価格のプレミアムビール」
として発売することを決めていたのです。
「これではスーパードライには勝てない」
そう思った前田氏は社長に直訴するのですね。
当時の社長は本山英世。
キリンビールの社長を4期8年も勤め、
当時「キリンの天皇」と言われるほどの実力者。
社内で誰も逆らえるものはいません。
その「本山天皇」に対して
「すべて責任は私が取ります」
その結果、取締役会で本山社長の一言。
「プレミアム案は却下」
当然、その席には、社内コンペに負けた「ラスプーチン」も同席。
苦々しく見ていたでしょう。
その結果、スーパードライと同じ価格帯で販売され
それにより、一番搾りは空前の大ヒット。
キリンビールは復活したのです。
一番搾りの開発の功績により前田氏は「社長賞」を受賞。
社内の誰もが知る存在になります。
でもその直後、前田氏はなぜか突然の左遷。
マーケティング部のチームリーダから外され、
移動先は経験のないワイン部門・・・。
この人事には、「キリンのラスプーチン」が前田氏への嫉妬から
人事部を動かし左遷させたのです。
もうここまで書いて、私が言いたいことは分かりますね。
こんなドラマのような展開は
「半沢直樹」そのものですからね。
これは是非池井戸潤さんが脚本書いて、TBSの日曜劇場で
ドラマ化をしてほしいですね。
「キリンのラスプーチン」を演じる方は、絶対香川照之氏で決まりです。
今「敵役」としては誰よりも一番似合ってます。
日本中の全国民から「圧倒的な」嫌われる役になるはずです。
TBSが「懺悔を込めて」ぜひ制作してほしいですね・・・。
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