キリンを作った男 その4
本山天皇体制は、やがて総会屋への利益供与事件の影響で終焉します。
その「茶坊主社長」がやっと失脚して、
96年3月にキリン社長に佐藤康弘氏が就任。
因みに佐藤社長は私と同じ早稲田大学商学部出身。
キリン初の私大出身社長ということから、キリンの古き体質がよく分かりますね。
実は、永年キリンは新卒採用の際に「指定校制度」を取っていたのです。
東大京大などの旧帝大と一橋大卒で私大は早慶しか採用しなかったのです。
ただ、就任早々佐藤社長は苦しんでいました。
当時売れ出していた発泡酒の開発にもキリンは着手しますが、
200も試作品を作りながら難航していたからです。
そこで佐藤社長は大英断!
97年9月、当時の佐藤社長はキリンシーグラムから
前田氏を呼び寄せるのです。
前田氏は本部商品開発部長に就任。
この時前田氏は47歳。キリンで40台の部長はただ一人。
つまり、「最年少部長」の誕生です。
これから7年もの間左遷されていた男の「倍返し!」のスタートです。
前田新部長は、わずか4カ月で「淡麗」を開発してしまうのです。
当時の販売目標は、98年12月末までに1600万箱だったのを
なんと!3979万箱も販売してしまうのです。
まさに「倍返し!」
初年度の販売数としては「スーパードライ」を
はるかにしのぐ「最多記録」だったのです。
でも、これだけにとどまりません。
「マーケティングの天才」は01年7月に「氷結」を開発。
当時は缶チューハイが売れていたため、キリンも参入したのですが
前田氏のアイデアで缶チューハイのベースを
甲類焼酎からウオッカに切り替えたことで大ヒット。
さらに、その後02年4月、糖質70%オフの発泡酒
「淡麗グリーンラベル」も開発。
健康系ビールとして大ヒット作となります。
これらの功績で04年3月末、前田氏は執行役員マーケティング部長に就任。
その半年後には執行役員酒類営業本部企画部長に。
さらにその後当時の加藤社長からも気に入られ、
キリンHD常務執行役員兼メルシャン代表取締役専務執行役員。
さらに09年1月キリンビバレッジ社長に。
実に、半沢直樹張りのドラマテックな展開でしたね。
マンガの「課長島耕作」から「社長島耕作」に駆け上がったような。
でも、やはり強烈な「オチ」が待っていました。
加藤社長はキリンとサントリーの統合計画を企てていたのです。
それが破談になって加藤社長は失脚。
加藤派と見られていた前田氏もキリンビバレッジ社長を解任。
結局キリンを追われることになってしまったのです・・・。
実はその後、前田氏がキリンを去ってから凋落の一途を
辿ってしまいました。
キリンのライバル(アサヒ?)社長の言葉。
「キリンは前田さんが作ったヒット商品に支えられていた。
キリンはそんな功労者を切ってはいけなかった。
こういう人事は、社員たちの士気にもかかわる」
本当にそう思いますね。
前田氏は、その後20年6月13日にすい臓がんで
亡くなります。享年70歳。
奇しくも29年前の6月13日
社長賞を受賞した日でした・・・。
さらには20年6月までの下半期で、キリンは09年以来、
実に11年ぶりにアサヒを逆転し、シェアトップに返り咲きます。
キリン全社をあげて「前田氏の弔い合戦」を
してくれたのでしょう・・・・。
「こんなサラリーマンが本当にいたのか!!」
リアル半沢直樹に心から感動しました。
とにかく一番搾りが飲みたくなりました・・・。
(ありがとう!キリン最大の功労者シリーズ おしまい)
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