田中角栄 上司の心得 その6
「殺し文句の一つも言えないような上司は、上司として
強い求心力は得られない。」
「田中軍団」と称される史上最強の派閥を作り上げた角栄氏の
すごさを物語るエピソードはたくさんあるようです。
令和2年の自民党総裁選で、菅義偉に敗北した石破茂氏。
この方は田中角栄の「殺し文句」で政界入りしたそうです。
石破茂の父・二朗氏は鳥取県知事を15年も務めた後、
参議院議員に転じて田中派入り、7年勤めた後、
1981年(昭和56年)9月に他界。
長く知事をやっていた関係で、鳥取県民葬が執り行われ
3500人もの弔問客があったそうです。
ただ田中角栄は、その石破二朗氏が亡くなる直前、
「万が一の時はあなたに葬儀委員長をやってほしい」
とまで「遺言」を託されていたのです。
残念ながら、その葬儀委員長は、その時の県知事に
譲ったのですが、葬儀後に目白の田中邸まであいさつに来た石破茂氏に
この殺し文句。慶応大学卒業したばかりの新米の銀行員であった石破氏に
「いいか。次の衆議院選に出ろ。あまえが親父さんの遺志をつがなくて、
誰が継ぐんだ。」
さらに必殺の「殺し文句。」
秘書に
「おい、青山葬儀所をすぐ予約だ。県民葬が3500人なら
ここに4000人集める。『田中派葬』として葬儀委員長はワシだ。」
これは田中角栄と石破茂氏を語る最大のエピソードでしょうね。
前代未聞の「派閥葬」でしたからね・・・。
こんな「殺し文句」を言える上司はちょっといないでしょう・・・。
昨年、令和2年3月21日に93歳でなくなった宮城まり子さんの
エピソードも有名なお話でしょう。
歌手として女優として大活躍したのち、私財を投じて
昭和43年、肢体不自由児施設「ねむの木」学園を開設しました。
当時は日本には社会福祉という概念が希薄で、障がい者への偏見も
多く、宮城さんは大変苦労したそうです。
当時、国の養護施設で教育を受ける予算は中学校卒業までと
なっていたのです。
宮城さんは田中角栄への直訴を思いつきます。
何とその直訴がかなって、さらに国の予算もついたそうです・・・。
田中角栄の絶頂期で当時は大蔵省(今の財務省)に絶大な影響力を
持っていたのでしょう・・。
まあ、これ以上政治家のエピソード話の「ヨイショ」は
やめておきましょう。
こういう話がいずれ漏れることによって、これ以上の「選挙運動」は
ないでしょうからね。
そこまで頭の働く「大物政治家」は、田中角栄くらいしか
いないのでしょう・・・。
ちょっと、上司と部下の関係とのお話がずれてしまいましたね・・・。
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