ワークマンはなぜ2倍売れたのか その3
ではそろそろ本題に入ります。
ワークマンを劇的に変えた方のご登場です。
「どうしてワークマンが変わったか?どうやってワークマンが変わったのか?」
を知るところに非常に意味があります。
土屋哲雄氏。(1952年(昭和27年)生まれ。現在66歳)
2012年4月、創業者土屋嘉雄氏が招き入れた方です。
同じ土屋姓ですが、ご子息ではなく、甥の方です。
この哲雄氏は非常に優秀な方です。
ワークマンの有価証券報告書から説明します。
東京大学経済学部卒業後三井物産で入社。
社内留学した後、若干33歳で中国で
「民間初のベンチャー」を立ち上げます。
中国語ワープロをいち早く量産して、中国では知らない人がいないほど
有名企業になったそうです。
その2年後、東京で「三井物産デジタル」を起業します。
経済学部卒ながら「ごりごりのエンジニア」でもあったそうです。
10年間社長を務め最終的には社員100人、売上90億円の規模に
成長させます。
これは並の商社マンではないですね。
その後、社内のエリートが集まる「経営企画室」次長に抜擢。
三井物産のエレクトロニクス製品開発部長に転じ、中国の国営企業との
合弁会社の社長になりました。
「中国ビジネスの裏側まで知った方」のような記載もありました・・・。
ここまで書いたら、土屋会長は「ベイシアグループの将来の幹部候補」として、
すぐにでも引き抜きたかったと思っていたに違いありませんけどね・・・。
それでも、三井情報開発でコンサルティング事業をまた新たに立ちあげ、
役員として60歳の定年まで勤めあげたのです。
定年直後、ワークマンに「三顧の礼」で迎えられたはずです。
でも面白かったのは、ここは土屋経営学。
「2年間は何もしないように」
という会長からの厳命。
総帥土屋嘉雄氏は当時80歳を迎えたところなので、そろそろ
後継問題ということがあったはずです。
長男の土屋裕雅氏。当時45歳でカインズの社長。
後継者候補であったことは間違いないのでしょう。
普通ならベイシアグループ本体に入って、後継者の長男の補佐役にでも
すべきところが、このあたりも土屋経営学ですね・・・。
ただ驚いたのは次の記述。
「ハードウエアベンチャーに始まり、道なきジャングルを駆け抜けた
商社時代。実感したのは自分が2流の商社マンだということ。
三井物産からみたら100億円の売上、10億円の利益なんてごみで、
そんなのは早く整理したい訳で。自分の限界を知ったのはいい経験だった・・」
優秀でありながら実に謙虚な方です。
これだけ、特に中国ビジネスの経験豊富で優秀な方は
日本にはそうそういないでしょうね。
よく、ライバル企業のユニクロが引き抜かなかったかと思ったほど・・・!?
« ワークマンはなぜ2倍売れたのか その2 | トップページ | ワークマンはなぜ2倍売れたのか その4 »
コメント