ワークマンはなぜ2倍売れたのか その2
ではそのワークマンの「生い立ち」から見ていきましょう。
ワークマンの源流は、1959年(昭和34年)に群馬県伊勢崎市に創業した
「いせや」という衣料品専門店なのですね。
「いせや」と聞いて懐かしくなりました。
群馬県の方なら誰でもご存じですよね。
伊勢崎の「いせや」ですね。
私は1984年(昭和59年)から3年間、野村證券高崎支店で仕事して
いましたからね。
群馬県というと「車王国」。車がないと仕事になりません。
高崎から前橋には車でよく行きましたし、その伊勢崎は太田や舘林、
桐生への通り道なのですね。
ここも毎日のように車で行きましたね。
田んぼの真ん中にあるのどかな田舎町でしたが・・・(失礼!)
今では「月間200キロ!走る税理士!」が私のキャッチですが、
この頃は、
「日間200キロ!走る証券マン!」でしたからね・・・!?
「いせや」は県内のあちこちの国道沿いにあるメジャーなスーパーでした。
でもその「いせや」なのですが、今では「ベイシア」に変わっています。
その「ベイシア」を筆頭に、「カインズ」そしてこの「ワークマン」。
コンビニの「セーブオン」、家電量販店の「ベイシア電器」、
カー用品の「オートアールズ」という物販チェーン6社を中心に
全28社で総売上高は9435億円(2020年2月末時点)で
何と1兆円にも迫る一大流通グループになっていたのですね。
すいません。これは勉強不足でした。
あの「いせや」がそんなに躍進していたとは・・・。
さらに紹介すると、特筆すべきは、創業以来、吸収や合併を
一切せずにここまで成長してきたのですね。
その巨大グループを一代で築き上げたのは「土屋嘉雄」氏。
昨年の2019年9月まで会長を歴任し、
なんと創業から60年間ですから、まさにカリスマ経営者ですね。
このカリスマの経営学は実に勉強になります。
では肝心のワークマンが誕生したのは1980年(昭和55年)9月30日。
群馬県伊勢崎市昭和町に「職人の店・ワークマン」として産声を上げます。
1号店はわずか16坪です。
その半年後に群馬県の大間々町にさらに、小さい14坪。
でも面白いと思ったのは3号店からフランチャイズシステム(FC)を
導入するのですね。
その頃はま米国発のFCシステムが主流になるとはだれも思っていなかった頃で
しょうからね。
ここでニトリやイトーヨーカ堂などのチェーンストア理論の指南役
渥美俊一氏の存在が気になりますが
きっとペガサスクラブにも入っていたはずです。
「この3号店から100店舗チェーンになることを見越し、
店のサイズや棚割りまで細かくマニュアル化する『店の標準化』
に踏み切っていた」
と書いてありましたからね。現在のワークマンは95%がこのFCです。
その礎を40年前に完成していたとは驚きです。
2年後の1982年8月「株式会社ワークマン」として
分社化します。
これが土屋経営学。
「経営者の育成ということが、第一の目的。それは分社して
経営を任せていく方がいいい。」
これは松下幸之助の言。
「1000億円の企業を経営できる人材を育てるのは難しいが、
100億円の企業を10人育てることはあまり難しくない。」
さらに3か月後。埼玉県寄居町に10号店がオープン。
なんと店舗面積60坪!
ここも土屋経営学。
「小売業の場合は、常識的に考えた大きさよりも、一段大きくした方が
いい結果を出す。これは私の経験から言える。
これに対してフードサービスの場合は、一段小さくした方がいい。」
1兆円のカリスマ経営者ですからなかなか含蓄がありますね。
コロナ禍の苦しんでいる飲食店の方にも「心にしみる」お話では
ないでしょうか・・・。
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