踊る町工場 その3
能作社長が就任する前の能作は、着色前の製品(生地)をつくる
下請け業者でした。
その能作が作った生地を問屋が引き取って、着色、研磨、彫金などの
手が加わり、仏具や茶器として出来上がった完成品を県外に持ち込むのが
「問屋」なのですね。
その伝統工芸が400年も続いていたのが「高岡銅器」なのです。
問屋の言うことを聞いていれば、普通には食べていけた訳です。
こういう業種は日本全国に多いでしょうね。
ただ、能作氏がするどいところは、伝統工芸の悪いところが
「ライフスタイルを無視した和へのこだわり」
と感じていたことなのです。
能作に転機が訪れたのが1999年(平成11年)。
高岡市のデザイナーの開いた勉強会でした。
そこで、イタリアのアレッシィというキッチンメーカーを紹介されました。
「技術的には負けていない・・・」
そう感じたそうです。
それに刺激を受けて開いたのが2001年(平成13年)の展示会です。
東京原宿で真鍮に旋盤、ろくろをかけたままの「花器や建水」の展示会です。
その展示会で作ったのが「真鍮のハンドベル」。
これです。
能作の「自社製品第一号」ですね。
これを作って、自社で売るということは、
「高岡銅器400年」の「禁断のおきて破り」。
下請け工場が直販するということは、
絶対にやってはいけないことだったのでしょう。
しかし、この本の読む価値はココにあります。
現状維持が得策ではなく、新しいことへのチャレンジなのですね。
冒頭書いた能作氏が「旅人」つまり、「よそ者」ということが
良かったのでしょうか。
翌2002年(平成14年)に社長に就任します。
社長という立場でどんどんチャレンジしていきますが、
ただ同業者からの軋轢は大変なものだたっと想像できます・・・。
しかし、満を持して発売したハンドベルは、
3か月でわずか30個しか売れず大失敗。
これはこれでよかったのではないかと思いますね。
失敗の理由は「日本のライフスタイルに合っていない」から。
しかも、マーケットの声が聴けたわけです。
ショップ店員から
「音色がとてもいいから風鈴にしたらどうか。」
その一言で風鈴にアレンジ。
そうするとたった3か月で
1個4000円もする風鈴が3000個も売れたのです・・・。
« いよいよ東京マラソン! | トップページ | 踊る町工場 その4 »
コメント