踊る町工場 その2
能作社長が入社した1984年(昭和59年)当時の会社は、
仏具、茶道具、花器を作る下請け業者でした。
もともと富山県高岡市は、400年も続く鋳物産業の集積地なのです。
「高岡銅器」といって日本の銅器生産の「9割以上」のシェアを
誇るそうです。
しかし、高岡の鋳物産業は年々衰退していたらしく、需要が減れば
当然問屋からの注文が減りと、これは申し訳ないですが
いわゆる「斜陽産業」だったのでしょう。
その高岡で小さな町工場に入社した能作氏はもがきます。
27歳でカメラマンという職業を捨て、肩書だけは「専務」として入社。
入社翌年に社長に提案した、経営改善計画である「ノーサクプラン」
というのが出ていました。
いろいろ前向きな提案です。
ただ、富山県の方言で「旅の人」という言葉が冒頭から何度も出ています。
「旅の人」というのは「県外出身者で富山県に移住してきた人」なのですね。
これも申し訳ないですが、かなりの「差別用語」でしょう。
よく「よそ者」と言い方をすることがありますが、
伝統産業を守る典型的な閉鎖的社会だったのでしょう。
「鋳物のいの字も分からんものが偉そうにいうな!」
きっと義理のお父さんには怒られたのでしょうね。
「新しいこと」をやろうとすると絶対叩かれるような伝統産業ですから・・・。
大阪芸大を出たインテリが、400年続く「職人文化」に
口が出せないような雰囲気があったのではと想像します。
伝統産業でありながら「斜陽産業」になっている業種・・・
日本全国どこでもあるような気がします。
特に伝統産業という枠を取り払えば、「下請けで苦しむ中小企業」は
日本全国どこでもありますからね。
問屋の下請けの立場で、例えば「直販取引」などということは
どこの業界でもタブーとされるものです。
400年も続く商慣習を変えるということは、「既得権益を守ろうとする」旧態勢力
が必ずいますからね。
参考になるかどうかわかりませんが、私も20年前にこの税理士という
「伝統産業」でもある業界に飛び込んで、「既得権益」を守ろうとする
旧態勢力から圧力を受けたこともありますから・・・
(本題からそれますのでこれ以上しません)
その逆境の中で、この2代目は会社を変革させていきます。
10年間で、
「能作は、高岡で1,2を争う鋳物屋」
「能作につくれないものはない」
「能作に頼むと安心できる」
とまで評価を高めていったのです。
ただ伝統産業の中で「旅の人」の立場でいろいろご苦労されたのではないかと
想像しています・・・。
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