「幻庵」(げんなん)
昨日アルファ碁に触れたからでしょうか。
どうしてもこの本のことを書きたくなりました。
百田尚樹さんの長編小説「幻庵」(げんなん)
江戸時代の棋士「井上幻庵」の生涯を描いた本なのですが
囲碁棋士を主人公にした小説は初めて読みました。
本当に感動しました。最後のページになって、読み終わるのが
あまりにも残念なので、また最初のページから読み返してしまったほど。
これは中学生の頃に、本を読む喜びを教えてもらった「水滸伝」以来の
出来事ですね。
当時囲碁の家元、本因坊家、林家、安井家、井上家の四家が
あり、それぞれが家の威信をかけ争っていたのですね。
家元の当主と跡目(つまり世継ぎ)が御城碁という
将軍の前で囲碁を打つのですね。
家同士の争い。それが「名人碁所」という最高の地位を目指して
まさに命を懸けたやりとりがあったのです。
その名人を目指して幻庵は生涯戦っていきます・・・・。
しかし、こんなことは、私は40年以上囲碁を学んでいますが
本当に知らなかったのですね。
すさまじいやり取りの臨場感が素晴らしいですね。
これは囲碁を打ったことのない方には、申し訳ないですが
分からないかもしれません。
囲碁をやっていて、囲碁を知っていて本当に良かったと
思えた本でした。
書きたいことはたくさんあるのですが、
囲碁を知らない方も、是非読んでみてください。
ただ一か所だけご紹介したいところは、
主人公に対して、ある女友達から
「なぜ囲碁を打つのですか?」
と問われる場面です。
「最善の手は何かをみつけるため。
つまり、無限とも思える盤上にただ一点の真理があり、
もしかしたら人知では見つけられないものかもしれない。
敢えて言えば、浜の砂から一粒の砂金を見出すようなもの。」
それに対して
「その砂金を見つけたことがあるのですか?」
との問いに
「生涯に二度か三度か見つけたことがあったような・・・
しかしそれが本当にそうであったかは碁の神しか分からない・・・」
なるほど!
これを百田さんは言いたかったのですね。
アルファ碁によって、何百台、何千台というコンピュータを
使って瞬時に「浜の砂から砂金」を見つけることができるような時代に
なってしまったのですね。
人知を超える神が確かに存在する世の中になってしまったのです。
でも江戸時代という遠い昔に、その神の手を目指して血のにじむような
努力をした方々いたのですね。
それを今でも棋譜というもので確認できるのです。
人間の頭で一粒の砂金を見つける素晴らしさが囲碁にはあるのです。
お分かりになっていただけるでしょうか。
百田尚樹さんの本ですから、
今まで「永遠の0」も「海賊と呼ばれた男」も
岡田准一さんを主役として映画化されていますから、
きっと映画化されるのでしょう。
これもまた楽しみです・・・。
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