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2017年6月26日 (月)

野村證券第二事業法人部 その4

1981年(昭和56年)11月、横尾氏は題名の通りの
野村證券第二事業法人部に「ご栄転」します。
事業法人部とは、名前の通り「上場企業」を相手にする部署。
野村証券内ではまさしく「花形の部署」。
それを入社4年目の20代でいくとは、考えられない大出世。


異動後「創意工夫で担当会社を次々と陥落」させたそうです。
さらに稼ぎに稼ぎ、担当役員から注意されるほどだったそうです。
ついたあだ名が、
「コミッションの亡者」
その後大活躍をしたのはたぶん本の記述どおりなのでしょう。


30年も前の野村證券はとにかく稼ぐものは社内で
「ヒーロー」でしたからね。
稼げば何やっても許された古き良き時代!?です・・・・。


書きながら思い出しましたが、社内で、

「ペロは人格」

という言葉がありましたね。
ペロとは注文伝票のこと。つまり注文を多く取る人は、
人格者であると・・・・。

ただ、横尾氏はこれだけ稼いだ割には給料は大したことなかったと
記述もありましたが・・・。(そうでしょうか・・・・?)


私が在籍した時と一瞬だけ重なった時期がありました。
ここは読んでいて懐かしかった。
それは1987年(昭和62年)10月19日の「ブラックマンデー」。


この時私は本社の転換社債ワラント部転換社債課のディーラーでした。
あの日、一日で日経平均が3836円も下がる史上最大の大暴落。
株価ボードはいつも上がると赤色に下がると緑色になるのですが、
この時ばかりは、全面緑色。まさに「オールグリーン」

30年経ってもあの時の全面緑色のボードが忘れられませんね。


しかし、この時の横尾氏がこの転換社債課に来ていたのですね。
その時の転換社債課のヘッドは松木新平氏。
狭い部署だったので部長席はすぐ隣でした。
人間的には尊敬していたのですが、その後総会屋利益供与事件に
巻き込まれてしまいました・・・。


転換社債課の隣にワラント課があったのですね。
当時はワラントも活況でした。
その後社内外的には大問題となるワラントでしたが・・・。
オリンパスはブラックマンデーの影響で決算前に
大損失を受けてしまいます。


それを何とかしようと横尾氏はオリンパスに暴落したワラントを
奨めます。

でも当時のワラントの市況はそれほど大きくはなかったのですね。
それで横尾氏は松木部長に頼みワラントを大量購入したのです。
それをオリンパスに買わせます。
これは一大大博打だったと思うのですが、
そのおかげでオリンパスは救われたそうです。


30年も前の私が若かりし頃、
こんなやりとりが、目の前で行われていたのですね・・・。

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