落ちこぼれでも成功できる(ニトリの経営戦記) その8
開業9年目の昭和50年。
ニトリは一度はどん底まで落ちたものの復活し、
4店舗、年商6億円の規模になります。
それでも社長はまだ31歳。若いですね。
その翌年の昭和51年。
ニトリは画期的なことを始めます!
何だと思いますか?
なんと「大卒者の定期採用」なのですね。
その時採用された5人は、「まぼろしの第一期生」といわれるそうです。
皆辞めてしまったからなのですね。
もし残っていたら、間違いなく幹部社員だったのですけどね・・・。
その頃家具屋に就職が決まると、親から
「何で大学まで出たのに家具屋なんかに入るんだ!」
そういわれるくらいの業種だったらしいのですね。
確かに長時間労働で低賃金。不人気業種だったらしいです。
拡大のための定期採用だったのですが、当初苦労します。
先月ご紹介した「DeNA」の南場社長も、
会社設立当初の採用には苦労したそうです。
「何だか社名が読めなくて、訳の分からない会社には
子供は入れられない」
と親から言われたそうですね。
会社拡大時期にどんな経営者もこれで悩むのです。
ただ昭和53年の第三次オイルショックで、就職氷河期が到来。
ニトリにとってはまさにチャンス到来でした。
この時のニトリの全従業員数は60名。
それに対する新卒採用者36名!
すごいですね。
なぜこれだけ強気の経営ができたか?
やはりこれはコンサルタントの渥美俊一氏の影響が
大きかったと思うのです。
この時確かに店舗のチェーン化について似鳥社長は悩んでいました。
「支店を出すなら5店舗くらいまで。」これが当時の常識でした。
昭和52年。33歳の時に渥美氏主宰の「ペガサスクラブ」に
最年少で入会します。
ここでチェーン展開するノウハウを学ぶのですね。
ここで渥美氏から言われた一言が似鳥氏を飛躍させます。
「流通業界の経営者は、35歳前後で大きな決断をしなければ
ならない。」
すばらしい一言です。
この一言で似鳥社長は、会社拡大させ、
北海道から全国展開することを決意します・・・。
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